いかにして真実が創造されるかに関する研究
今や、誰もが哲学者を名乗り、哲学的真実として主張を展開することができるが、その主張者は哲学者ではないとか、その主張は哲学的真実ではないと言うことは誰にもできない。つまり、哲学は使い物にならないということだ。
哲学が使い物にならないのはその有用な定義がないからだ。哲学を有用なものにするために、私は「哲学とはいかにして理解が真実を創造するかに関する研究」というシンプルな定義を提案した。理解があらゆる意味の源になるからだ。理解無くして、現実も真実も意味もない。よって、哲学が科学になれるよう、私は以下の自明的真実の採用を提案する。
- 哲学とは、いかにして真実が理解によって創造されるかに関する研究である。
- 理解とは信念を観察対象に適用すること、つまりそれに形(感覚でとらえられるもの)と意味を与えて、新たな信念を創造することだ。すべての信念は―それらは表現されるものだから―言語のなかに存在する。
- 2種類の信念:
- 理解の制御(宗教):生来備わっていて、理解を創造するために幼児期に修正される、不変的なもの。つまりは、本能と幼児期の経験が善悪の判断を決定づけ、意味、従って目的、を創造する―その人間がすべきこと、すべきでないこと―生き残る、食べる、寝る、繁殖する等―。また、信念は理解の道徳感であり、これは分別―感情の要求に抵抗する能力―か無分別―感情に抵抗できないこと―を与える。
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理解のツール(科学):原因と結果を理解が経験することで明らかになる信念。崖から一歩踏み出せば落ちる、といったことだ。理解の一生を通じて収集され、洗練されるこうした公理は、正誤を見分けることを可能にし、理解の知識となる。
- 真実とはある理解の信念であり、この信念はその理解の現実を創造する。
- 現実とはその感覚が検知する記憶形態、そして現実がその形態に与える意味である。つまりその経験である。現実は以下から構成される。
- 理解の性質―その感覚と分別
- 理解の位置―それが観察できるもの
- 伝統とは、現実から最大の利益を得るために理解が採用する習慣だ。
- 知識は分別ある理解の信念である。なぜなら、分別のない理解の信念は恐れ及び空想により堕落する。つまりそれは妄想である。
- 知恵とは知識の分別ある使用である。
これらの真実を採用することで、哲学が有用なツール、つまり科学へと姿を変える。この科学は理解、言語、現実、真実の理解だけでなく、社会、つまり共有される理解をも説明する。これらの説明により、人類が文明を形成(優勢な社会を形成)するにあたってとる行動の理由、そのような社会が成長し(その理解を洗練させ)、そして衰退する(その理解を失う)理由が明らかになり、我々自身をよりよく理解できる。
哲学の新科学は人間理解を大きく向上させるが、それは現代社会が衰退過程にあることを明らかにし、ほとんどの市民を愚か者と非難するため、非難される側は当然その評価に憤慨する。ほとんどの現代市民はこの新科学を頑固に無視し、それを認識するよう迫られるとその擁護者を迫害する。